ガキ大将
元々やんちゃな性格だった僕は、小学校時代はガキ大将でやりたい放題。
小学校で兄の影響でボーイズリーグで野球を始め、部活では水泳、陸上、サッカーと季節ごとに参加してスポーツを楽しんでいました。
その中でも野球は高校生まで続けましたが、普通の県立高の野球部でもレギュラーになれる事無く、何となく最後の夏を終えました。
楽しいはずのキャンパスライフが...
大学に入って以前から漠然とかっこいいなぁなんて思っていたアメリカンフットボ―ル部がある事を知りました。
「アメフトかぁ~。なんか大学って感じがしてカッコイイなぁ」
勧誘ブースではお揃いのチームスタジャンを着た先輩部員が新入生に声を掛けています。
緊張しながらブースに行って入部希望を伝えると、とりあえず練習見学となり鶴見キャンパスから緑キャンパスまで車で移動。
「さすが大学生、グランドまで車で移動かぁ~。大人だなぁ。」
なんて思っていたら30分程で到着。
日が暮れ始めた、まだ肌寒いグランドでの練習見学が始まりました。
「えっ???マジ???」
しばらくすると、こんな言葉が頭の中でぐるぐる駆け回り始めました。
何を言っているかわからない掛け声による準備体操で練習開始。
練習中は怒号が飛び交い、「ハイ!」と言うでかい声があちらこちらから聞こえてきます。
見ているこちらの緊張感を増幅させる、ヘルメットがぶつかり合う鈍い音。
イージーミスには容赦なく手や足が飛んできて、パチーンとした甲高い乾いた音や、ボコッと言う鈍い音が夜空に吸い込まれていきます。
ピリピリした雰囲気の中、練習が終了。
部の紹介文には「アメリカンフットボール部同好会」とあったので、楽しくやれたらいいなぁ、なんて思っていたらなんと、その年から正式に体育会運動部に昇格したとの事。
後日談で、当時の4年生に高校アメリカンフットボールで全国大会準優勝の先輩がいたのですが、その先輩が同好会としての取り組みを根本から変え、部に昇格させたとの事でした。
そして僕は厳しいながらも真剣に取り組む先輩に憧れて、晴れて入部。
...。
とはいきませんでした。
僕は怖気づいたんです。
練習の様子にビビッて入部を見送ったのです。
それからは授業とアパートを往復するだけの毎日。
クラスでは付属高校から上がってきた顔見知りのグループが形成され、田舎者の僕は馴染むことが出来ずに友達もできません。
学食で一人で食べる勇気もなく、唯一の楽しみはジャンプとマガジンの発売日。
何でここにいるのか価値も見いだせないまま、ボーっと毎日を過ごしていました。
ある日、キャンパスを歩いていると、練習見学に一緒に行った子が声を掛けてくれました。
その子はそのまま入部していました。
「今何やってんの?一緒にやろうよ」
声を掛けてくれて嬉しかったのと、まだ興味があったアメリカンフットボールへの思いが沸々と頭をもたげて来ました。
そして他の1年生とは遅れて、6月初旬に入部をします。
ここからがこれまでの人生で一番つらかった地獄の始まり。
練習は想像を遥かに超えて過酷で、毎日ついていくのが精一杯。
夜のベッドで、
「明日、世界の終わりが来ますように」
と何度も祈りましたが、いつも翌日は快晴でした。
しかし、そこで今まで甘えきっていた僕は性根から徹底的に叩き直されました。
甘えは許さない。
妥協は許さない。
本気で取り組む、勝つために本気で取り組む。
大学アメフトリーグでは最下部リーグの4部です。
しかし、その先輩の
「取り組む姿勢にリーグは関係ない」
という気持ちにつらいながらも必死になってついていきました。
本当に好きなものと、師との出会い
2年生になり、少しだけ余裕も出来てきたある日、アパートのベッドの上でアサイメント(アメフトでは作戦のことをこう呼びます)を考えていました。
すると、
「あれ?俺、楽しんでる!」
と感じたのです。
始めたころは、とにかく辛かっただけのアメフトを楽しめている自分に気づいた瞬間でした。
とても不思議な感覚で、それは他のスポーツでは感じられなかった感覚でした。それからは人が変わったようにアメフトにのめり込んでいき、その楽しさに没頭していきました。
この時期、その後長きに渡って師と呼べる方に出会うことが出来ました。
その方からはいろんな事を学ばせて頂きました。
その方から頂いた言葉にこんな言葉があります。
「俺は俺だ。 人とは違う。 それが俺だ。 人とは違う。 だから俺だ。 二人といない自分を尊べ。
自分を周囲に埋没させるな。 俺は俺だ。」
諦めたら終わり
4年時には主将を任されるようになり、意気込んで最後のシーズンに挑みました。
しかし、春シーズンの試合中に足元にブロックを受けた僕は右膝に今までにない感覚を覚えました。痛みはさほど無かったので、プレーに戻ろうとすると、
「カクン!」
右膝に力が入らずそのままフィールドに崩れ落ちました。その日の夜は痛みで悶絶し、翌日整形外科を受診しました。
「前十字靭帯断裂」
前十字靭帯の付着部の骨が一緒にはがれる剥離骨折を伴うものでした。
すぐに手術を勧められました。手術をすると復帰までは通常10カ月はかかると言われています。最終学年の春で早くもシーズンアウトという現実が受け入れられず、それから数日間呆然と過ごしてしていました。
ある日、心配した兄が知り合いがやっている治療院を紹介してくれました。なんと、その先生の診察ではシーズン中に復帰できるというのです。間に合うかもしれないという希望を与えられ、それから治療とリハビリに没頭します。
そして根気よく続けているうちに、夏合宿が終わるころにはだいぶ走れるようになっていました。
ダッシュ、大丈夫。
防具をつけて当たる、大丈夫。
タックル、大丈夫。
徐々に練習に復帰し、秋のリーグ戦にも間に合い、最終戦の上位リーグとの入れ替え戦までフル出場することができました。
しかし、試合には出れたものの、靭帯は切れたままと思っていて、シーズン終了後の手術を覚悟していました。また同じ整形外科に行き、独断で手術をやめてしまったことを謝罪して、再度右膝の状態を診てもらいました。
先生、「きちんとくっついてるね、まれにあるよ」
僕、「えっ!?。」
予想外の言葉を聞いて僕は唖然としてしまいました。
先生も驚いたようですが、僕自身もとても驚きました。
もう治っていたんです。
それから20年近くプレーしましたが、再度右膝に痛みが出ることはありませんでした。
諦めたら、終わり。
あそこで手術を受けていたら、主将として迎えた最後のリーグ戦はすべてサイドラインで過ごしていたでしょう。
しかし、できると信じて、やるべきことをコツコツ続けることで奇跡を起こすことができ、それを体験できたのは僕にとって、とても大きな財産になりました。
柔道整復師になる為に
大学卒業後はアルバイトをしながら憧れていたトップリーグでアメフトをやるためにプレーを続けていました。
トレーナーを目指そうと考えたのですが、日本ではトレーナーの国家資格は存在しないことを知り、治療院の先生の影響から柔道整復師を目指すことにしました。
それから、2年間アルバイトで学費を貯めて、専門学校の夜間部に入学。
平日は朝から昼までアルバイトをし、それから1時間半かけて専門学校に通い勉強して夜の11時に帰宅。
日曜日は社会人アメフトの練習や試合となかなか忙しい毎日でしたが、級友にも恵まれ、国家試験も一発合格しました。
アメフトの方も大学最下部リーグ出身の僕が、最後は社会人トップリーグまで経験することができて充実した選手生活を送る事が出来ました。
接骨院、整形外科勤務時代
11年間、開業までに接骨院と整形外科での勤務を経験しました。どの勤務先も勉強になることが多く、いろいろな経験をさせてもらいました。
整形外科勤務時代は足首の捻挫のリハビリを専門で担当させてもらえ、様々なケースを体験しました。
自分の施術で良くなっていく患者さんや、あまり変わらない患者さんを目の当たりにして、改めてこの仕事に対するやりがいや自分の力のなさを痛感し、様々なセミナーを受講していろいろな勉強会にも参加しました。
実家で開業
田原市で接骨院の分院長をやらせてもらっていた僕は開業を考えていました。店舗を探したり、治療器の選定をしたりと動いていると兄から実家の写真館で開業しないかという相談を受けました。
市内では開けた場所なので悪くはないのですが、いろいろな手続きを終え開業するにはあと4年ほど掛かるとのことでした。
迷いました。しかし、僕も住み慣れた場所で開業し子供も育てられるならと遅らせることを決断し、その4年間に新たな資格も取得しました。
そして、平成26年にたくさんの人にお世話になり、豊橋市札木町の実家にて家業の写真スタジオに併設する形で、佐々木接骨院を開業することができました。
アメリカンフットボールは高校生と社会人チームにトレーナーとして携わり、こちらも日々勉強させてもらっています。
院の理念
院の理念なんて少し大げさかもしれませんが、僕が治療、施術をするにあたって常に携えている思いがあります。
それは誰でも可能性があるという事。
そんな可能性を信じて、決して諦めない気持ちを持って治療、施術に当たっています。
ですので、諦めないのが院の理念、になります。
たとえ僅かでも、そこに可能性があるのなら僕は諦めません。
ゲームオーバーは自分で決めてはいけないのです。